昭和四十三年一月八日 朝の御理解


御理解第三十四節
「ここへ参っても、神の言うとおりにする者は少ない。みな、帰ってから自分のよいようにするので、おかげはなし。神の言うことは道に落としてしまい、わが勝手にして、神を恨むような者がある。神の一言は千両の金にもかえられぬ。ありがたく受けて帰れば、みやげは舟にも車にも積めぬほどの神徳がある。心の内を改めることが第一なり。神に一心とは迷いのないことぞ。」

 ここに参って来て、神の心を御理解によって聞かしてもらう。ここでは、成程と聞いておっても、道へ落としてしまうから、おかげはないとおっしゃる。それを有難く頂き、生活の現場に現わしてこそ、おかげが受けられる。そのおかげは船にも車にも積めぬ神徳があるとおっしゃる。為には、心の内を改める事が肝要と、最後に言っておられます。
 そうゆう、こうあらねばならない、こう行じなければならないと頂いたそうです。それを素直に受けて、素直に行じさせてもらうところに、おかげは受けられる。又、徳も受けられるのである。そこのところを本気で行じなければいけん。毎朝取り組まねばいけん。有難く頂いて帰れば、船にも車にも積めぬ神徳がある。そうゆうおかげを皆さんが頂いてゆかねばならん。そこで、そうゆう御理解を前提として、今から、私が皆さんにお話する事を行の上に現わしていったらよい。
 皆さん、霊神様の前に生けてある花、あれは、そばから見ると非常にいいんです。あの大きな大王根?の中に、???は大きく生けてありますけれども、中へ、いっぱい千両と???実がたくさん入れてあるんです。あれで、あの花は???訳なんです。あの赤い千両が中になかったら、あの???なんです。私共の日常生活の上にも、あの赤い???赤に心とは真心、その真心がどこのはしにか表れておかねばいけない。
 例えてゆうなら、向こうも向こうならこっちもこっちと言うけれども、普通それが人情だと思うのですが、信心さして頂く者は、そこんところなんかも、ちっとは違うとゆう事がなからにゃあいかん。こげんも心配しとります、こげんも思うとりますと言うただけでは、誰も通じないとゆう事。ゆうなら赤い心とゆうのは、ほんのわずかでもよい、あの花と同じ事。あの青い花と、白い花だけだったら値打ちはないけれど、中に千両が点々と入れてあってです、あの花が引き締まっておるように、私共の生活の中には、あの赤い心とゆうのが実際に現わされておかねばいかん。心にあった分じゃあつまらん。
 昨日善導寺の原さんが、ここで先生と言われる方達が二人、寝台で冠をつけて、寝ておられるところを御神眼に頂かれた。さあ、ここでは寒修業だとゆう行があっておるというのに、それに参加しようともせん。一日だって参加しようとゆう意欲がない。寝台の上に寝てござる。どんなに冠はかぶってござったっちゃあ値打ちはなかです。昨日、久富繁雄さんが、御神夢の中に頂いてございますように、大坪総一郎がゆく所にはです、さあ姿は分からん。私しゃあここばい、ここばい、とゆうて、高い所から言いござる。どこか分からんけれども声が聞こえてくるから、それについて行く事が信心だ。私の信心が大変高値の信心とゆう訳ではないですけれども、確かに上の方から、繁雄さん、ここにおるよ、あたしゃあここにおるよと、言うから、先生どこですか、どこですかと、それを尋ね求めして登らしてゆきよる所でした。私が修業に入っとるなら、皆修業に入らして頂いてこそ、私は信心だと思うんです。それが出来なければ出来ないでいいけれども、せめて真似方ぐらいは現わさねばいけないとゆう事。分っとります、思うとりますだけではいかん。
 随分前になります、久富先生の所で宅祭りがあった時でした。誰かが、お道の信心では、真とか真心とか言うけれども、真とか真心とかは、どうゆう事ですかと、尋ねてあった。文雄先生が、御神意をうかごうて説明しよりました。その事を成程素晴らしい説明だなあと、いつも思い出すんです。真とは鉄砲の玉のようなものだ。真心とは、それ打ち出す事が真心だ。真でございますと言うただけではいかん。真心で、それが打ち出されなければ、向こうには通じないとゆう事です。ですから、その赤い心が形の上に表れて、表現される時に一日がしまるのです。さあ年末とか、年始とかには日頃お世話になっている所にはお歳暮の一つでも、お正月に行くならお年玉の一つも持って行くのがエチケットだ。どんなにその人が、たくさん持っておるとゆうても、持っとるだけではなあにんならん。それが、なにかに、日頃世話になっとるから、なにか形に、赤い心が、思われたのが、実際に出されてこそ、向こうの気持ちが通じるのです。私は、ここんところが信心さして頂く者は分からなければいけない。神様に対しては勿論の事、けれども人間関係の上においても、やはり真心が、真が思われ、それが実際に現わされていってこそ、本当のおかげである。それは青々と生けてある、花の中の赤い点々とした千両の実のようなものかもしれない。私共、日常生活を引き締めるもの、それは赤い心である。その赤い心が現わされるところに信心生活があると思うのです。
 昨夜、夜の御祈念にかかる前でした。さあ御祈念ばい、御祈念ばいと言うてから、コタツの間におりましたから、栄四郎が一人コタツの中に入っとりました。立ち上がる時には、必ず座布団はきちっとしとかないかんばい、灰皿があるなら、灰皿はきれいに捨てて真ん中にきちっとおいとかな、後から来て座った者が気持ちが良いようにしとかないかん。私が口うるさく言う訳です。私が、そんなに言うもんですから、言いました後にです、私と家内と三人でした。もう三人で笑いましたこっでございましたけれども、お父さんが、こげん口うるさく言うから、うちのおやじは、うるさい奴じゃねえと、栄四郎君は思いよるじゃろうと言いましたら、「いいえ」と言いますもん。どげん思うねえと言いましたら、大変有難いと思いますと、こう言う。そして、私が今言うた、灰皿を洗ってきて、真ん中に灰皿を置いて、座布団をまっすぐにして、一緒に広前に出てくるんです。私は、やっぱりそれだと思うんです。なんとうるさいおやじなんだろうと言わないで、思わないで有難いと思いますとゆう事なんです。有難く頂いて帰れば、船にも車にも積めぬ神徳があるとおっしゃいます。ですから有難く頂いて帰るとゆう事が大事なんです。それが行の上に現わされる事がです、真が真心で現わされるとゆう事なんです。そこに引き締まったおかげが頂かれる。
 例えば、今言う、コタツの間ならコタツの間がです、いつ行っても、いつ入ってもきちっと気持ちが良いとゆう生活が約束される。どうぞ、ひとつ船にも車にも積めぬ神徳があると仰せられるのですから、もういっぺん読んでみます。御理解第三十四節「ここへ参っても神の言うとおりにする者は少ない。皆帰ってから自分のよいようにするのでおかげはなし。神の言う事は道に落としてしまい、わが勝手にして、神を恨むような者がある。神の一言は千両の金にもかえられぬ。有難く受けて帰れば、土産は船にも車にも積めぬ程の神徳がある。心の内を改める事が第一なり、神に一心とは迷いのない事ぞ。」どうぞ、ここんところを頂いて帰って、ですからどうゆう事かとゆうと、素直にならなければいけないとゆう事が分かります。素直にそれを受けられる。その素直心がやはり大事だとゆう事がわかります。どうぞ。